努力すれば報われる”は幻想?|公平な競争は存在しない
公平な競争なんて、最初から存在しない
「努力すれば夢は叶う」「やればできる」
そんな言葉を、私たちは何度となく耳にしてきました。 もちろん、この言葉が誰かの背中を押す場面もたくさんあります。努力を続けることの尊さは否定しません。
しかし、冷静に現実を見つめてみたとき、こうした言葉は必ずしも真実ではないことがわかります。
たとえば、100m走で9秒台を出す選手がいる一方で、どれだけ練習しても13秒を切れない人もいる。
絵や音楽の世界でも、生まれながらに圧倒的なセンスを持っている人がいます。
スポーツや芸術の分野では、こうした“才能の差”はある意味で「当たり前のこと」として受け入れられています。
ところが、勉強や受験の世界になるとどうでしょうか?
努力でなんとかなる
出来ないのは努力が足りないからだ
才能なんて関係ない、勉強は努力の世界だ
こうした声が、まるで正義のように……たったひとつの真実のように広まっています。
でも、本当にそうでしょうか?
「努力は報われる」の危うさ
中学や高校の勉強を見ていると、誰よりもノートをとっているのに点数が伸びない子がいます。
毎日3時間以上机に向かっているのに、模試の判定がDやEのまま変わらない子もいます。
反対に、要点だけサッと確認しただけで高得点を取ってしまう子もいる。
この差はどこから来るのか。
それは、生まれ持った認知力、読解力、処理スピード、記憶力といった、本人ではどうしようもない「初期能力」によるものが大きいです。
さらに、
- 勉強に集中できる家庭環境
- サポートしてくれる大人や塾の存在
- 成績を気にせず勉強に集中できる精神的安定
といった要素も、すべてスタートラインを揃えることを難しくしています。
「努力は報われる」は、たしかに美しい言葉です。すがりたくなるような甘美な言葉でもあります。
でもそれを真に受けて、「自分は報われない=努力が足りない」と思い込んでしまうと、 自分を追い詰めてしまう、壊してしまう危険性すらあるのです。
それでも努力は無意味ではない
ここで誤解してほしくないのは、 「どうせ才能がすべてなんだから、努力なんて無意味だ」という結論ではありません。
重要なのは、“誰かの基準”で努力を測ろうとするから苦しくなるという点です。
受験勉強において、全員が同じ目標を目指しているように見えても、実際には
- 目指しているレベル
- 伸びしろ
- 努力にかけられる時間やエネルギー は人それぞれ。
ある人にとっての「普通の努力」が、他の人にとっては「死にものぐるい」だったりする。
だからこそ、自分なりの限界までやり切った経験には確かな価値があるのです。
結果は人によって違って当然。 大切なのは、“自分のやれる範囲で最大限の努力をしているか”という問いかけです。
「足るを知る」進路選択という賢い選択
では、自分の資質と限界を踏まえたとき、どうやって進路を選べばいいのか?
それは、無理に「上」を目指すのではなく、自分が“活きる場所”、”納得出来る答え”を探すという選択肢を持つことです。
もちろん、まだ伸びしろがあり、どうしても行きたい学校や夢があるなら、 努力を重ねてそこを目指すべきです。そこはあえて否定しません。
しかし、現実には“夢”よりも“合う場所”で自分を活かしていく方が、 長い目で見て満足度の高い人生を歩めることもあるのではないかと私は思うのです。
- 難関校ではなく、自分のペースで学べる環境を選ぶ
- 偏差値よりも、部活動や校風、人間関係の相性を重視する
- 進学ではなく、早期に社会に出てスキルを身につける道を選ぶ
そういった選択も、立派な“人生の勝ち方”の一つです。
どうしても一部の価値観に偏りがちですが、 その中で自分に合う道を見つけるという視点も必要なのです。
結論:「勝ち筋」は人それぞれ
競争は公平ではありません。
でも、その中でも戦える場所、自分が勝てる土俵を見つけることはできます。
そのために大事なのは、「自分を知ること」と「自分に合った努力の仕方を知ること」。
他人の尺度で動かず、自分の可能性と限界を理解しながら、 自分の“勝ち筋”を見つけていく。
それが、受験における、そして人生における本当の意味での“戦略”なのではないでしょうか。