体験の与えすぎが子どもの成長を止める?|親の善意と押し付けの境界線
最近、教育の現場でも「体験格差」という言葉を耳にする機会が増えてきました。
これは、家庭の経済状況や教育観によって、子どもが受けられる“経験”に差が生まれるという考え方です。たとえば、海外旅行に行ったことがある子とない子。プログラミング教室や英会話スクールに通っていた子と、そうでない子。このような“家庭外での体験”が将来の学びや人生観に大きく影響するのでは?といった議論です。
確かに、いろんな経験をすることは子どもにとって価値のあることです。世の中の多様性を知る、未知の世界に触れる、自分の可能性を広げる……そういった意味で、子どもに多くの選択肢を与えることは、大きな意味を持つでしょう。
でも、だからといって――。
「与えれば与えるほど、子どもが豊かに育つ」とは限らない。
そんなことを、私たちは今一度、考えるべきではないでしょうか。
親が「良かれと思って」与えた体験は、押し付けになっていないか?
子どもが何かに興味を持ち始めたら、少しでもそれを伸ばしてあげたい。子どもの可能性を狭めたくない。これは、どの家庭でも共通する親心だと思います。
ですが最近では、その“与えること”が過剰になりすぎてはいないでしょうか?
・プログラミングが将来役立つと聞けば、すぐに教室へ申し込む
・「英語は早期教育が大事」と聞けば、英会話スクールへ
・「体幹が大事」と聞けば体操教室、「自然体験が成長にいい」と聞けば田んぼ体験やキャンプへ
……確かにどれも意味はあるかもしれません。
でも、それらをすべて“親が手配し、準備し、導いて”ばかりでは、子どもが「自分で発見する力」や「主体的に選び取る力」を育むチャンスを奪ってはいないでしょうか?
「退屈」や「貧しさ」から生まれる学びもある
私たち大人の世代を振り返ってみても、幼い頃の記憶にこんなものがあるのではないでしょうか。
・誰にも頼らずに何かを工夫して遊んだ日
・特別な体験があったわけではないのに、なぜかずっと記憶に残っている夏休み
・お金がない中で、何かをやりくりして工夫した経験
……そんな「何もない時間」だったり「制限された環境」だったりすることが、逆に記憶や成長に深く結びついていることが多いものです。
もちろん、海外旅行や体験学習、習い事などが悪いという話ではありません。
問題なのは、それが“親の理想”であって、子ども自身の欲求や興味ではないとき。
子どもが「やらされている」と感じている時点で、それは本来の意味での“体験”ではなく、“作られたレール”でしかありません。
子どもは「自分の世界」で育つもの
子どもは、大人が思う以上に、自分の世界の中で多くのことを感じ取り、学び取っていく力を持っています。
石ころを拾って「これ宝石みたい」と感じる感受性。
スーパーのレジの様子を見て「働くってこういうことなんだ」と思う観察力。
何も予定がない1日を使って「ヒマって意外と楽しい」と気づく余白。
それらは、いわゆる「お金をかけた体験」では得られない、本当の意味での“学びの芽”かもしれません。
親が先回りして道を整えなくてもいい。 むしろ、少し遠回りでも、自分で選んで自分で歩いた道のほうが、その子にとってはかけがえのない経験になるのです。
与えることより、“待つ”ことの大切さ
教育は、「与えること」より「待つこと」だと、私は思います。
もちろん、親のサポートは必要です。
ただ、「よかれと思って」与えすぎると、子どもの可能性を狭めることもある。
- 子どもが興味を示したときに、一歩先のヒントを与える
- 子どもが何かに挑戦したがっているときに、背中をそっと押す
そんなふうに、“介入”ではなく“支援”のスタンスで関われるのが理想です。
「経験格差」や「体験格差」という言葉に踊らされて、焦る必要はありません。
大切なのは、“今の子どもにとって、どんな経験が必要か”を見極めること。 そのためには、与える前に、子どもをよく見ること、よく聴くこと、そして信じること。
教育とは、子どもが自らの世界を育んでいく過程を、信じて待ち、支える営みなのだと思います。