完全私見。部活動をやる意味について語ります

結論:部活動の本質は「限界を超える体験」

「部活って、やる意味ありますか?」

ふと聞かれたこの一言が、今も頭に残っています。
質問してきたのは、真剣な顔をした高校1年生でした。

最近は「部活はやらなくていい」という考え方もあります。
無理に続けるより、自分の時間を大切にした方がいいというのもわかります。
そのほうが合理的だし、正しい選択に思えることも…

たしかにそうなのかもしれません。
部活をやめて勉強に集中した方がいい子もいるし、体力的にも精神的にも、きつくなってしまっている子もいます。
それを無理に「続けろ」とは全く思いません。

でも、もし「部活って、意味あるんですか?」と聞かれたら、こう答えます。

「あれだけ追い込まれた経験は、あのときしかなかった」
「限界を超えた、と思える瞬間が何度もあった」

だから、やる意味はあったよと。

部活動に入る理由や、部活をやってみる理由として、みんなで一つの目標を目指す。協力する。コミュニケーション力を磨く。上下関係を学ぶ。

確かに、そうしたことも部活動の「効果」としてあるかもしれません。

でも、そんなのは正直、表面的すぎると個人的には思います。

それよりもはるかに部活動をやるうえで価値のある経験があります。上でも触れましたがこれにつきます。

「限界を超える体験をすること」

一歩も動けないほど身体が限界を迎えた日。

心臓や肺が張り裂けそうなぐらい走って走って走りまくった練習。

真夏の炎天下で1時間ノンストップのダッシュ・スクワット。

酸欠や脱水状態で猛烈な頭痛と吐き気に襲われながらのランニング。

脚がもつれて転倒するまで繰り返した階段ダッシュ。

真夏のグラウンド、頭がくらくらする中での「タイムが切れるまで終われない50mダッシュ×無限本」。

何度やっても勝てない試合のあとに流した涙。

逃げたくて仕方なかったあの練習。

あれだけ苦しかったのに、なぜか今も心に残ってるのは、 自分が限界だと思うことに挑戦し、突破しようとしたあの瞬間、あの体験です。

自分の限界を決めつけるな

こんな経験や思いを持たれている部活経験者の方は多いのではないでしょうか。

あの苦しかった辛かった練習や試合が、人生の中で何度も自分を救ってくれた。

大学受験でも、就職活動でも、社会人になってからでも…

「あのときの自分を超えられたんだから、きっと今もいける」

そう思える“根拠のない自信”が、いざというときに自分を前へ押してくれる。

限界を超えるという経験は、実は「自分の殻を破る」ということ。

それを学生時代の部活でやれるって、ものすごく尊いことだと思います。

「キツいからやめたい」 「別にやらなくてもいい」 「部活って意味あるの?」

そう思う気持ちもわかりますが、限界を超えた経験がないまま大人になるのと、一度でも“壁”をぶち破った経験があるのとでは、その後の人生での「戦い方」がまるで違います。


私自身の体験談

小学生の頃は徒競走でビリ以外取ったことがなく、シャトルランも6年生当時ギリギリ13回行く程度の運動能力た体力でした。

中学校へ入学し、当時一番練習がハードだったバスケ部へ入部。

家族や友人からは「ついていけるわけがない」「すぐに辞めることになるよ」と言われていました。

実際入部して数カ月は、ウォーミングアップのランニングやフットワークの練習にさえもついていけず毎日吐くか、泣き出すほど辛かった。毎日足を引きずって家まで泣きながら帰っていました。歩いて15分で到着する登下校の道を歩けなかったので30分も40分もかけていたこと覚えています。

練習にもついていくことが出来ず、全身筋肉痛や疲労感に毎日襲われていやでいやでしょうがなかったです。5時間目や6時間目の授業中になんとか部活を休む口実を作るために、息を止めて気絶しようとしたことも、宿題や提出物を忘れたことにしてさぼろうと思ったことは1度や2度ではありません。

なんどかサボろうとしたこともあったのですが顧問の先生に見つかり強制送還され、結局練習で追い込まれる日々が週7回休み無しで続きました。

1年生の頃は先輩の人数も多く試合に出るメンバーではなかったため、どれだけきつくても練習の後半からは休めます。実践形式・試合形式の練習中は見て勉強するか自主練習の時間に出来たため1年生の秋からは楽をすることも出来ました。

その後は体力や実力もつき、手を抜く所もわかるようになって楽になりました。しかし、先輩が引退し私達の世代が中心になってすぐの夏休みの練習は想像を絶するものでした。

朝9時から夕方5時までお盆期間以外一切の休みなく行われました練習は走るメニュー中心でほとんど休憩がなかったのです。ツーメンというバスケ部にはおなじみの練習メニューが一番印象に残っています。詳しい説明は割愛しますが、2人で連続レイアップシュートを50本連続決めるまでエンドレスに続けるというのが毎日ありました。

バスケ部は私の世代私ともう一人しかいなかったため、文字通り2人で50本連続シュートを決めるしかありません。外したらもう1回ゼロからのスタートです。中学高校大学社会人と15年以上のバスケットをやってきましたが、圧倒的にこの2年生のメニューが一番厳しかったです。今でもはっきり当時の光景や足の重さ、熱量を思い出せるほどです。

自分がミスしてしまったときや、足を止めてしまったときに自分だけが罰を受ける、走るのであればプレッシャーはそれほど感じません。しかし仲間も走らないといけないとなると話しは違います。

一緒にやっていた友人は私より体力や運動能力に優れ、ミスをしません。それも私へのプレッシャーとなりポロポロミスをしてしまい、無限に走らないといけなくなる。50本連続で決まるまで休憩も取れないのでずっと全力で走ることに。酸欠状態が続いてものが考えられなくなり、激しい頭痛に襲われて倒れたことも数回ではなくほとんど毎日と言っていいほどでした。意識がとんだこともあります。いま思い出すと恥ずかしいんですが、辛さときつさや悔しさ、頭痛と目眩や先生からの怒号、私のせいできつい練習を続けることになっていたキャプテンへの申し訳なさでわけがわからなくなって泣きながらバスケをやっていました。1年生の頃も辞めたい、しんどいもう無理と思っていましたがそれは運動習慣やそれまでの実績がなく、最初はこんなもんだろうとある意味受け入れやすい辛さでもありました。が、先輩が引退して自分達が最上級生、引っ張らなければいけない状態で1年半やってきての自信もあります。そのなかで毎日泣いてしまうほどの練習は私の心を折るのには十分でした。お腹は減っているのにご飯が全く食べられないほどのストレスもあって「今日こそ辞めよう」と思いながら部活へ行っていました。

結局、私は辞めませんでした。
いや――何度も「辞めたい」と思った。何度も「逃げたい」と泣いた。

でも、「ここで逃げたら、一生なにかから逃げ続ける人間になる」。
あの瞬間、頭じゃなく、魂でそう思ったんです。

泣きながら、足を引きずりながら、意識を失いかけながら、それでも立ち上がって走り続けた。
歯を食いしばって叫びながら、地面を蹴り続けた。

それはもう、根性とか精神論じゃない。
「自分を変えたい」という祈りみたいなものだった。

苦しくて、逃げたくて、何度も諦めかけた。
でも、壊れた先にしか見えない景色があることを、あのとき知ったんです。

もうむり、限界なんて、幻想だった。
「もう無理」のその先に、“本当の自分”がいた。

自分を支えているのは、あの“どん底の瞬間”で流した汗と涙と、歯を食いしばった日々です。

「限界は、自分で決めるな」
「挑んだやつにしか見えない世界が、たしかにある」
本気でこう思います。

部活って何の意味があるのか?
その答えは、限界を超えた者だけが知っている。


主張:誰にでも「限界突破の瞬間」は訪れる

どんなに今は弱くても、走れなくても、努力が苦手でも、 本気になれる瞬間が来たら、誰でも“限界”を超えることが出来ます。

でも、その“瞬間”は待っているだけでは一生来ません

自分から、挑戦しにいく必要があります。

だからこそ、小学生・中学生・高校生のどこかのタイミングで、 「今の自分には無理かもしれない」って思うくらいの挑戦に一度は踏み出してみてほしいです。

それが部活動であっても勉強でも、創作でも、正直なんでもいいと思います。

限界を超えるという経験をしたことのある人は、 その後の人生でも、“限界の超え方”を知っています。

それを知ることができるのが、今この「学生時代」です。


まとめ

私の主観ですが部活の本当の意味は、「みんなで頑張る」でも「礼儀を学ぶ」でもありません。

もちろんそれも大切だとは思いますが

一番の価値は「限界を超える」経験を持てること。

それが、これから何年も先の自分を支える“心の土台”になります。

苦しい練習も、負けた試合も、乗り越えた先にあるものを知っているか。

しんどいことや辛いことに直面した際に「あの夏の地獄の練習よりはマシだった」と感じることが出来るか。

それだけで、辛いことがあったときの感情や、乗り越えるべき壁への戦い方が全く違うものになります!

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